そもそも論者。
ほんの少しのブログ更新だけど振り返って読み直すと羞恥心満載である。
は、が、を などのことばの使い方や言い回し。
改行や間のあけかたなど、気になるところがありすぎる。
人にみられることなど気にせず想いのままに言語化してみようがテーマで始めたこのブログであるからよいのかもしれないが。。。
まぁ、引き続き、言語化していくことを頑張ってみよう。
「イメージをより具体的にしていく」
「ブログにすることで想像していることをより明瞭に、より素早く言語化できるようになること」
が目標です。
文章にしていると、「そもそも」という言葉を多く使いがちということに気付く。
実際に文章にしているよりも、もっと多くの「そもそも」が浮かんでて使わないように別の言い回しに変えたりしている。
この「そもそも」という言葉、なかなかの癖だ…。
そう。いつのまにか、そもそも論者になってしまっていたのだ。
やっかいなことに「そもそも」という言葉はある事柄に対して
ちょっと待てよ、それを言う前に考えることがあるんじゃないか。という
ストップ、または振り返り、はたまた後退という方向に思考が進みやすい言葉なのである。
体育会系出身の考える前に行動、目上に言われたことは絶対という思考を疑いもなく過ごし、社会に出た途端一切に通用せず、めちゃくちゃ困った経験をしたため、まず目の前の言葉を咀嚼することを学んだ。そのおかげで恩恵もたくさん受けてきた。
が、なんでもかんでも一旦、言葉をフィルターに通して考えるということの副作用としてブログみたいな何かを論じようとしたときに「そもそも」が発動すると、言いたいこととは反対方向に進んでしまい、結局言いたいことが言えなくなってしまう。そればかりか、どんどん抽象的になっていき結局なにから伝えていけばよいかわからなくなってしまうということが起きている。
ある意味では非常にめんどくさい。ある意味でなくてもめんどくさいか。
時と場合、使いように注意ですね。
抽象的な思考は非常に有用で助けてくれることが多いけど、今はそればかりで抽象的思考沼なるものにはまっているのかもしれない。
抽象⇔具体の行き来が大事とはいうけど、
文章では横に表現されて、そのせいか横の関係でイメージしていたけど
抽象
⇅
具体
と階層的になっていて、[抽象 対 具体]が100-0、0-100じゃなく、80-20とか40-60というようなバランスもとって使われているのか。
「0ー100思考」これも陥りがち…
本日のまとめ
・そもそも論者になりすぎな件
「そもそも」を使いすぎない
・抽象的思考のデメリットもある
おわり
人生色々あるし、人生はマジで積み重ね
連続投稿から早一週間。
時間というのはあっという間で、何も出来ぬまま時間だけが過ぎ去って行きました。
まぁ、なんというかたった一つの事実が覆しようもない状況をうんでしまい、ただただ状態が好転し、時が経つのを待つことを強いられていたわけですが。
自分の場合ですが、、
何か変えようと思って行動すると
結果的に良くないことになってしまうことが多い気がしてきました。
もう少し具体的にすると、
短期的に成果を出そうとするとか、急激に生活を変えるとか、思い切って新しいことを組み込んでやるとか、そういった行動。
結局変わることができず、現状維持しかできないのか?と感じずにはいられないような状態であるが、なんとかもがきたい。
方法の問題か
そもそもの問題か
いややはり、
基礎や初歩というものが大事でその土台がしっかりしてるから応用や自由(無理とか)がきくのである。というのだけど、自分にはその知識や解釈という部分での基礎や初歩が劇的に弱いのだろうか。
まぁ、非常に考えさせられるというか、考えようもないというか、今後の身の振り方を見直すべきであるのか、また仕切り直しです。
スタートです。焦らず一歩一歩迷いながら実直に生きていきましょう
どこでも誰でも気軽に知りたいことを知れるようになったからこそ
どこでも誰でも気軽に知りたいことを知れるようになったからこそ
世に出て注目を浴びた瞬間に一気に人々に広まり、多くの人に知られた瞬間から人々の記憶から消去され始める。
そうなると生みだす者も、それを得る者も、単で分かりやすいものを得て、それで満足してしまっているように感じてならない。
簡単で分かりやすく、多くの人の役に立つものにも十分な価値があるとは思う。
でもやっぱり、簡単に手に入るものほど、簡単に手放しやすく、失われやすい。
自分にとっての物の価値は、感動するものや、衝撃を受けて、その後ずっと記憶から離れないものだったり、悩んだり、試行錯誤しながら苦労して時間や力をかけて、なんとか手に入れたものにあると思っている。
実際、自分の基礎だったり、柱になっているものはそうやって得られたものである。
そういったことを知っているからこそ、自分が言葉にして発信するには抵抗がある。
せっかく得たものを自分の言語力で言語化して発信することで簡単なものになってしまうと思っていたから。
でもやっぱり色々含めると伝えることは(自分にとっても、人にとっても)いいことだと思うからやってみる、まだまだこんなレベルだけど試行錯誤して続けてみる。
言語化能力の鍛錬を続けていけば少しづつ成長して、発信するものに力が備わってくるはず。
おわり
信念とはなにか、定義してみる
「信念」
信念を持ちなさいとか、信念をもちたいとか、確固たる信念とか、
夢実現のためには「信念」というのは非常によく用いられる言葉である。
夢や目標を実現するためには信念をもって行動を継続することが求められる。
だいぶ書き進めたところでアプリが落ちて内容が消えてしまいました。
もう書くのは大変なので結論へ。
信念という言葉は抽象的な言葉である。
よって具体的に定義することで抽象的な言葉の幅広い凡庸性のある状態から、誰もがある程度同じ内容と理解する状態にすることが抽象的な言葉を具体的にするポイント
「信念」
目標や実現したい夢をどこまで想像できるか
映像としてより鮮明に頭の中で再現可能か。
それができない状態は信念にはならず「思いつきレベル」、道途中でみえなくなり実現には至らないことが多い。らしい。
口でいくら高尚な理想を語ったところで結局は居酒屋でのお話しということ。
抽象概念を具体化するのは言語化と映像化がポイントということをまとめたかった内容でした。
おわり
以上!
死ぬほど言語化が苦手な人がやっているブログ④
上達の近道はマネをすること。
世の中にあるもので全くの新しいものはなく、ほとんどが何かのマネであると。
以前読んだ本でドラえもんを作った不二子Fさんもそのようなことを言っていた記憶がある。
またオリジナリティは何かの型を持ったうえであると型のないオリジナリティなど存在しない。とも以前読んだ本に書いてあった記憶があります。
話は変わるが、ある時から読書が趣味になって、それに伴ってインプット量も増えて、だからアウトプットも上達しているかなと思っていたが全くそんなことはなかった。
というよりアウトプットがここまで壊滅的だともはやインプットもそれほどされていないんじゃないかとさえ思わされてしまうほどであります。
ただ逆に、アウトプットができるようになるとインプットがより向上しそうと期待感に溢れているわけであります。
”今のあなた方はあなた方の心の思い方、考え方がつくったんです。”
ある時を境に名言というものも抵抗なく受け入れられるようになってきました。むしろ名言とかってぐうの音もでないような、的を得て過ぎてて考えを言語化してくれている。
上の言葉も最近知ってそうよなーって思いました中村天風先生のお言葉。
死ぬほど言語化が苦手な人がやっているブログ③
更新されたものを見ると死ぬほど読みにくくて見ずらいブログ。
こんなの人に見られたら恥ずかしいし、ましてや知り合いなんかにみられたら死ねる、、
こんなブログを人が読むわけないのに未だに人が読むことを意識しているのもキモイし、言葉遣いも汚いしどうすんだこれ。
まぁ、頑張ってみるか。
また140字!!Twitter!!
死ぬほど言語化が苦手な人がやっているブログ②
そうそう思い出した。
普段は仕事でヒトのからだに接することが多く、その治療の中で特にカラダの柔軟性低下が問題点に上がりやすい。そのため家でもストレッチをしましょうと提案をさせてもらうんですが。
大体みんなそのときはやってきますというんだけど、1週間後に確認するとやれなかったです。っていう人がほとんどで、こちらとしてはやってよー、やってくれたらもう少し良くなりやすいのにって心の中で思う。
カラダの柔軟性は必ずやれば変わるし、伸ばすという刺激を加えるだけでもカラダの調子を崩しているところに何かしらの良い刺激となるんだけど、やっぱりすぐに効果を感じられなかったりとか、やり方がわからなくなったりとかいうのが原因でやらないんだよね。
ブログと一緒じゃん!
最初簡単そうで続けられそうなんだけど、いざやってみると思ってたように書けなくて難しく感じるし、やる気もなくなって継続できなくなってしまう。
カラダの柔軟性は必ず継続していけば変化するし、いろんな方法はあるけど、自分にあう方法というのがあって、でもそれは続けていって段々とわかってくるものだし。
何よりも最初が一番大変。
今までの自分にない新しい刺激をやるものなんだから身体にも頭にも結構な労力だし、負荷かがかかるもの。でも頑張って続けていくうちに変化が感じられるようになってくるし、あれこれはどうなんだろうと自分なりのアレンジが効くようになってくるんだよなー。
であれば、ブログもとりあえず続けるというのが絶対条件なんだろうな。
少し府に落ちました。